『……ちょっと付き合ってもらえますか?』

受話器越しに響く遠慮がちな声に「勿論だ」と返すと、ほっとしたようなため息が聞こえた。

どこに行けばいい?そう問いかけた俺の言葉に、沢村は小さな声で居場所を告げた。








出発前夜








グラウンドの入り口に足を踏み入れると、ベンチの前で佇む沢村の姿が目に入った。

ベンチに背を向ける形で立ち、マウンドを真っ直ぐに見つめている。時折吹く風が沢村の髪をやわらかく揺らしていた。

迷わずそちらに足を踏み出す。土を踏む音が、夕闇のしんとした空気の中で響いた。

俺の足音に気づいているであろう沢村は、それでも微動だにせずマウンドを見つめている。

さく。

さく、さく。

さく、さく。

ゆっくりと沢村に近づいていく。日中とは比べ物にならないとはいえ肌にまとわりつく空気は熱く、明日も暑い一日になりそうだと思った。




明日、俺達は兵庫へと出発する。甲子園で戦うために。甲子園で勝つために。

そのため今日の練習は少し早めに切り上げられ、夕食以降の時間は準備にあてられていた。

とはいえ用意するものなど限られているため、時間に追われるほどのものでもなく。 各選手とも早々に遠征の準備を終えてしまい、今はもてあました時間を各自思い思いに過ごしている。

テンション高く騒いでいる奴、緊張が隠しきれない奴、恐ろしいほどにいつも通りのペースを崩さない奴……多種多様で、それなのに全員が似たような高揚した空気を纏っており、寮の中は不思議なムードに包まれていた。 それは記録員として参加する自分も同じで。

何となく落ち着かない気分で空いた時間で5号室に顔をだそうかと思っていた丁度その時に、顔を思い浮かべていた相手からかかってきた電話。

そのことを嬉しく思うのと同時に、沢村がきちんと準備を終えているのかが心配になった。

(過保護だとついこの間亮介に叱られたところなのにな……)

そんな自分に苦笑しつつ、沢村のすぐ側までたどり着き足を止める。

沢村、と声をかけようとして一瞬ためらった。

マウンドを見つめるその目は、月の薄明かりの下で透き通るほどに澄んで見えた。



「どうした、こんなところで。もう準備は終わったのか?」

そう問いかける俺の言葉に、沢村はマウンドから目を逸らさずにコクリと頷く。

「……なんか、部屋にいて荷物見てたら落ち着かなくなって」

なんとなく足がここに向いちゃいました。そう言って視線を落として一瞬苦笑した後、沢村は再び透明な表情に戻ってマウンドに真っ直ぐ目を向けた。

「本当に、行けるんですね。甲子園」

沢村の声は小さくて揺れていて、そのことに俺は少し驚く。

『度胸だけは一人前』と日頃揶揄される姿はそこにはなく、 彼が入部してまだ数ヶ月の1年生であることを思い出させた。

まだまだ身体の出来上がりきっていない、薄い肩。

それに手を伸ばそうかと思うのと 同時に、目の前の頭がくるりと動いた。

「ねえ先輩、覚えてます?」

身体はグラウンドに向けたまま、沢村が首をまわしてこちらを見る。 先ほどマウンドに向けていた真っ直ぐな視線のまま。じっと俺を見つめた後、瞳に宿る力はそのままににっこりと笑った。

「先輩と、ここで初めて会ったんですよ。覚えてますか?」

その言葉に、更に驚くと同時に笑みが浮かぶ。

「忘れるわけないだろう」

この場所にいると告げられたとき、ふと思い浮かんだあの情景。

そう、忘れるわけがないのだ。

あの日あの時にこの場所から。全ては始まったのだから。



「クリス先輩」

身体ごとこちらに向き直った沢村は、そう俺に呼びかける左手で俺のTシャツの裾をぎゅっと掴んだ。何かを伝えようとするときの、沢村の癖だ。

「どうした?」

そう応えると合わせていた視線を落として、もう一度小さな声で俺を呼んだ。

「先輩」

「うん?」

「……俺は、先輩の3年間を預けてもいい投手になれましたか?」

問われた言葉に瞠目する。

Tシャツを掴む手は、強く握りすぎてわずかに震えていた。

俯いたままの沢村のつむじを見ながら、顔を見せて欲しいのに、と強く思う。

どんな表情で彼はこの言葉を紡いだのだろう。それを教えて欲しかった。



『お前にだけは、俺達の過ごした3年間を託したくない』

初めて球を受けたあの日、沢村に告げた言葉。


間違ったことを言ったつもりはない。

半分は沢村を鼓舞するため、半分は本心から、目の前の相手に言葉を投げつけた。

『出れない選手も含めすべてを背負ってマウンドに立つ』

それが投手に託された役割であり、そしてその覚悟が沢村には欠けていると思ったから。

その重みを知らない者に、自分の、自分たちの野球に賭けた日々を託したくはなかった。

けれど今は……



俯いたまま顔を見せようとしない沢村の右手をとる。

確か出会った時も、こうやってこいつの手を取った。

それを思い出しながら、あの時とは全く違う気持ちでてのひらを包み込んだ。

ゆるく握り返してくる手をぎゅっと握る。

「お前が青道に来てくれて良かった」

そう口にしたら、沢村が俯けていた顔を勢い良く上げた。

見開かれた大きな目。そんなに見開いて、零れ落ちたらどうするんだ。

まばたきもせず俺の顔を見上げる沢村に思わず苦笑を向ける。

何をそんなに驚くことがあるのか。

いつだって俺はお前という投手に出会えて良かったと、心からそう思っているのに。

そう思わせる投手に、お前はもうなっているのに。


この気持ちを、目の前の男になんと言って伝えたらいいのだろう。

どれだけお前の野球が好きで、お前の野球に救われてきたか。俺がどれだけお前の野球を大事に思っているのか。あますところなく伝わればいいのに。



思いを表す言葉を知らない俺は、もどかしい気持ちを抱えながら握り締める手に力を込める。
伝わるといい。それだけを切に願いながらゆっくりと言葉を重ねた。

「お前に俺の3年間を預けられることが、俺は本当に嬉しい」

頼んだぞ。

そう告げた瞬間。沢村の顔がくしゃりと歪んだ。

こどものような泣き顔に、思わず頬が緩むのを感じる。

沢村はぽろぽろと涙を零しながら、ゆっくりと倒れこむように頭を寄せてきた。そのまま肩口に顔をぎゅうぎゅうと押し付ける。濡れた熱が肩口にじわりと広がった。




俺、頑張ります。だから。

ちゃんと、俺のこと見ててくださいね。

一緒に、一番高いところまで行きましょうね。


俺の肩口に顔を埋めたまま、ぽつりぽつりと沢村が伝える言葉。

肩で感じる熱い涙の温度、小さな鼻声、混じる嗚咽、Tシャツの裾をつよく掴む手のひら。

その全てを包み込めればいいと思いながら、背中に腕を回してぎゅっと抱きしめた。





ぐずぐずと泣き続ける沢村のつむじに軽く口付ける。

「始まる前からこれだけ泣かれると、見ているほうは少し心配になるんだが。そんなのでマウンドに立てるのか?」

からかいの混じる口調にむっとしたのか、沢村は鼻をすすると埋めていた顔を上げて少し身体を離し、顰めっ面を作ってこちらを見上げた。

「もうおしまいです。泣くのは、優勝したときまでお預けです」

そう言って顰めた眉を解いてわらう。

「一番に先輩のところに走っていきますから。俺がどんだけ泣いても文句言わずにちゃんと抱きしめてくださいね?」

そう言う笑顔がたまらなく可愛くて、皺の消えた眉間と涙の跡の残る目尻にキスを落とした。




本当は。

見ているだけじゃなくて。

気持ちだけじゃなくて。

本当に、一緒に、一番高いところまで行けたらよかったのに。


滲み出たその思いは、言葉にしてしまう前に心の奥底に沈めて蓋をして。

もう一度沢村の身体を抱きこんで、きつくきつく抱きしめた。

「先輩、痛いですって」

そう言いながらそれでもころころと笑って、沢村も俺の背中に手をまわした。









20080415

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「ストームライダー」のトウコさんからいただきました!!じ・ま・ん!!笑
私の落書きからこんなステキなものを書いていただいちゃいましたよ!!何コレ!海老鯛!
もーこれぞクリ沢です!クリ沢の原点です!ステキすぎる!!トキメキ過ぎる〜〜〜!!!!(落ち着け)
本当にありがとうございました!!家宝です^^自慢自慢!笑





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